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宝石研磨の世界

タイのバンコクで宝石研磨工場、宝石鑑別教室を経営してます。

稀代の名工 菅原徳三さんを偲んで

バンコク日常の出来事、、稀代の名工 菅原徳三さんを偲んで

2016年5月21日11時 バンコクのジュエリー職人菅原徳三さんがお亡くなりになりました。
享年65歳です。
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菅原徳三さんは宮城県南三陸町出身で中学を卒業後、集団就職で東京のジュエリーメーカーに宝石研磨職人として入社しました。キャスト技法が無い時代にジュエリーの職人としても修行し、その後、一品物のジュエリー職人として独立しました。バブル経済の時代にバンコクの大手宝石商社ワールドクリスタルに技術指導員として呼ばれ、その後御徒町のジュエリーメーカー株ミキルに入社、ミキルのバンコク支社であるリザードアートファクトリーの現地社長として勤務、株ミキル倒産後はバンコクの日系シルバー工場で働かれました。

バンコクには私を含め約50名の宝石商がおり、その中で業界人に話題になる有名な日本人宝石商が5名ほどいます。そのうち4名はバンコクで大きなジュエリー製造工場を経営し、大成功を収めた大社長です。残り1名は菅原徳三さん(通称徳さん)で、彼は腕の良い職人として宝石業界人から話題になっていました。

ある有名宝石商が「徳さんの作った商品はすぐわかる、石の輝きがまるで違う」と力説していました。
また、バンコク在住のある日本人職人さんは「超一流の技術を持ち、職人の中の先生」と言いました。

あるタイ人の超大物宝石商が亡くなった時、世界中から有名宝石商が弔問に訪れました。もちろん、日本の大手宝石会社の社長も多数葬儀に参列しました。一介の宝石職人である徳さんも葬儀に参列しましたが、ご遺族が徳さんの姿を見つけると、最前列の親族席に案内したそうです。このタイ人の超大物宝石商は生前に、お酒を抱えて徳さんの部屋に赴き、夜な夜な楽しいお酒のひと時を過ごす事を楽しみにしていたそうです。葬儀の席で、世界中の有名宝石商を差し置いて最前列に座らされた徳さんはすっかり恐縮していたそうですが、それを察したご遺族は、「あなたは父の親友だった」と言ったそうです。

徳さんはミキル時代に多くのタイ人職人を一流に育て上げました。彼は惜しげもなく彼の技術を弟子たちに教え込みました。
一粒の麦が多くの実を結ぶかの様に、彼の弟子達はバンコクの大手工場で職人の中心として活躍しています。政治家の後藤新平は『3流の人は金を残す、2流 の人は仕事を残す、1流の人は人を残す』と言いましたが、徳さんはまさに人を残す人物でした。

私は徳さんに特別に可愛がられました。
彼はお酒の席でジュエリー制作の基礎や彫金技法などを諭すように私に語っていました。それはまるで私を一人前の宝石商に育てるような語り口です。私と徳さんと職人の中島さんの三人で毎週のように飲み明かしました。

ミキル倒産後から亡くなるまでの数年間は、バンコクの宝石商では私と中島さん以外はほとんど交流がなかったようで、ときどき三人でお酒を飲みました。その時いつも語っていたのは娘さんの人生の事、父親としての責任の在り方でした。彼は家族のために会社の工場に単身で寝泊まりし、仕事に打ち込んでいました。

葬儀の席で娘さんに会い、「徳さんは全人生を犠牲にして君のために生きたんだ」と言いました。
これは私がどうしても娘さんに伝えたかったことです。もちろん、娘さんも徳さんを父親として誇りに思っていたようです。しかし、職人としての彼の功績は知らなかったようで、彼が沢山の一流の宝石商と人脈を持ち、職人として一流の評価されていた事、更に、人間性も素晴らしかったと伝えました。

人情家で、人懐っこく、心温まる人間として誰からも愛されていました。

昔、祖父の葬儀の席でお坊さんが、「故人を時々思い出してください、それが故人の生きた証ですから」と言う法話をされました。
私と中島さんは2人でお酒を飲むとき、徳さんの功績や人柄についてよく語っています。彼の人生は波乱に富み、時に実直で、時に破天荒で語りつくせぬほどの思い出があります。男二人で泣くことは出来ませんので、一献傾けながら、思い出話に華を添えています。

ジュエリー業界を支え続けた職人の中の職人、そして私の先生
ご冥福をお祈りします。

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  1. 2016/07/15(金) 10:53:57|
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